fiancee 1 (関連作品:Please teach me!!)
暖かい日差しが差し込む昼下がりの講義室。
昼食を済ませ、早めに講義室に入った私は机に突っ伏してうとうとしていた。
講義室には既に数人の生徒がいた。3人の派手な女子グループがきゃっきゃっと黄色い声をあげて談笑しながら、お菓子を食べていた。
連日の試験で睡眠不足だったが、の指導のお陰で難しい免疫学の試験も無事に乗り切ることが出来た。
死ぬ気で勉強して、卒業して国家試験に合格しなければいけない。
医学科に入学した生徒の多くがそう思っていることだろう。
特に、私のように無理して医大に行かせてもらっている人間ならば。
「・・・・・・えっ?嘘でしょ?」
「ほんとだよ。見たもん」
女子の話す声がヒソヒソ声に変わったが、それでもしっかり聞こえている所が滑稽だ。
また噂話か・・・。
派手で化粧が上手で、お小遣いで買ったブランド品や彼氏からの貢ぎ物を身につけている
彼女たち。親はどこかの病院の外科部長だとか有名大学の教授だとか、いい家庭で育ったお嬢さんらしい。
「さんがさんを連れてアパートに入るのを見たんだから」
「ショック・・・」
今、さんって言った?
夢と現実の狭間をさ迷っていた私は、急に意識が覚醒した。
「あんな地味な人がねぇ。玉の輿でも狙ってるんじゃないの?」
そう言って3人はきゃははと大声で笑っていた。
こんな話を近くで聞かされると、気分が悪くなる。
経済学部や教育学部等が集まった中心キャンパスに比べると学生の人数が格段に少ない医学部キャンパスだから、付き合いがばれてしまうのは仕方が無いし、噂されてもある程度は我慢できる。
しかし、周りに聞こえていると知っていながら、全く悪気なく陰口を叩くのはタチが悪い。
私は確かにたちのように育ちが良い訳ではないけれど、媚びようとか思っている訳じゃないし、彼がお金持ちだから付き合っているんじゃない。
が普通の家庭の人だとしてもこの気持ちは変わらないと思う。
「でもさあ、さんって病院の跡継ぎでしょう?何か結婚相手も決まってるとか聞いたけど」
「そりゃ、当然っしょ。あんなどこの馬の骨かも分からない子と結婚はないわよ」
「あはは。あんた、それ酷すぎ」
「でもあんな大病院継ぐ人なんだから、もっとちゃんとした人選ぶよね。普通は」
「そうそう。一時の遊びだよ」
「そんなこと言って、あんたさん狙ってるんじゃないの〜?」
「やだぁ」
どういうこと?結婚相手が決まってる?
急に不安の波が押し寄せてくる。
と半年以上付き合っているけれど、家の話はほとんど聞いたことがない。両親がお医者さん
ってことは知っているけれど、それだけ。大病院の息子だなんて初めて聞いた。
前にがお母さんと電話で話していたことがあって、その時に彼は敬語で話していた。
私が「家族なのに敬語で話すの?」と笑うと、「たまたまだよ」と流されたことがある。
頑張って将来はドクターになってに近づけると思っていたけれど、本当は私とは程遠い世界の人間なのかもしれない。
結婚する約束なんてまだしてないし、私もまだ20歳だから、絶対にのお嫁さんになる!なん
て考えていた訳じゃない。
それでも一時の遊びだなんて悲しすぎるよ。
少なくとも、明るい未来があるから何も心配することなく付き合って行けるんだと思っていた。
ねえ、私はこれからどうするべきなのかな?
私は今日も手抜きの晩御飯を作っては一人で食べた。
は最近忙しくて、なかなか連絡がつかない。
6年生になると夜遅くまで病院実習で疲れ果てて帰宅。家に帰っても勉強勉強。
私の方も解剖実習が始まり、人体の隅々まで生で触れる機会を持って、ようやく本格的に医学を学んでいるという意識を持つようになってきた。
今は自分の夢に向かってコツコツと努力するだけ。
けれど、悩みを抱えた頭では、本の内容がすーっと頭の右から左に抜けていきそうになる。
もうちょっと頑張らなきゃと自分に言い聞かせていたが、1時間もすると机の上で寝てしまって
いた。
カバンの中に入れていた携帯が鳴っている。
お気に入りの歌手のメロディー。
・・・あの着信音は、だ。
早く出なきゃ・・・でも、体が重くて起きられない。
あんな噂を聞かされたら、私は笑って話せる自信がないよ。
その夜、から何度も電話があったが、私は携帯をマナーモードにして布団の中に潜り込んだ。
解剖実習は数ヶ月の間、延々と続く。
ご遺体に感謝の意を込めて黙祷し、慎重に臓器を取り出して必要な部分を切り出してスケッチする。
神経、血管、筋などの名称をひたすら暗記する。
死体に触れるのが怖いとか気味が悪いという感情は実習を重ねるごとに薄れてくるが、長時間ホルマリン臭が充満した部屋で作業するのは気分が良いものではない。
疲れたからご飯を作る気も起きず、お弁当を買って帰ることにした。
実習棟を出て病院のコンビニに向かうと、先に終わった由梨が雑誌を立ち読みしていた。
後ろから軽く肩を叩いて声をかける。
「お疲れさま」
「お疲れー今日は特に疲れたね」
「ほんと。肩凝るわ、目は痛いわでもうクタクタ・・・」
細かい神経を固定する作業で心身ともに疲れ果てていた。
「ねえ、気晴らしにご飯食べに行かない?」
「いいねえ。行きたい」
由梨の素敵な提案に、私は乗り気だった。
こんな日は、女同士気兼ねなくご飯でも食べてストレス発散しないとね。
「どこに行こうか?」
最近出来た韓国料理屋もいいな、なんて私はワクワクしながらお店を考えていた。
「そうだね。あ・・・」
廊下に出ると、急に由梨が立ち止まった。目の前にはが立っていた。
何でここにが?
「こんにちは。ご無沙汰してます」
「・・・ちは」
「じゃ、じゃあ。折角だから今日は二人でごゆっくり」
いつもにも増して無愛想なを見て気まずくなったのか、由梨は逃げるように告げた。
「あ、由梨!」
由梨は振り向くと、廊下を歩きながらにっこり手を振った。
もう、由梨ったら。気を遣ってくれるのは嬉しいけど、今日は由梨と二人で話したかったな。
と二人でこの場にいるのは何となく気まずい。
「よう」
「よっ・・・珍しいね。今日は早く終わったの?」
「ああ。毎日遅くまでやってられるかよ。それより、昨日電話したんだけど・・・」
はじっと私を見据えたまま返事を促す。
「昨日・・・ごめんね。疲れて早く寝ちゃったの」
私は不自然にから目を反らさないように笑ってそう告げた。
「そうか、今日は調子どうだ?明日休みだから久々に飯でも食いに行くか」
いつもの私だったら喜んで飛びついて行っただろう。
大好きな人と食べる美味しいディナー。自分では作ることのできない珍しい料理を目の前にするだけで、至福の時を過ごせる。でも今日の私は違った。
ごめんね。折角気を遣って落ち着けるレストランに連れてきてもらったのに、心から喜べない。
こんなに持て成してくれるのも、が卒業するまでの1年限りなのかなと思うと胸の奥から熱いものが込み上げてきそうになる。
食事の後の帰り道。高級車の分類に入るであろうの車のふかふかのシートにもたれて、窓の外を眺めていた。
カーステレオから流れるが好きなロックバンドの歌も、どこか物悲しく聞こえる。
「どうした?何か元気ないな」
「そう?疲れてるからかな・・・」
私は落ち込んでいることを悟られないように振舞う。
「…しんどい時はいつでも言えよ。実習が終わったらすぐに駆けつけるから」
「うん…ありがと」
自分も忙しいのに、私の為にそう言って安心させてくれる。
「ねえ、・・・」
「どうした?」
「何でもない・・・・・・」
どうして遊び相手の私にそこまで優しくしてくれるの?
こんなに大切にされたら、私、あなたにもっと溺れて離れられなくなるかもしれないのに。
いつか別れを切り出された時に絶望するよりも、早いうちに自分から別れた方が賢いのかな―。
「おまえ、何か悩んでるだろう」
「え……?」
ふいにに尋ねられたが、すぐに反応できなかった。
「ずっと上の空だし」
「そんなことないよ」と言った私ははっとした。
いつの間にかコンビニの駐車場に車が停められていることも気が付かなかった。
「大丈夫。疲れてるだけだから…」
「いや、食事の時にも大人しいのはおかしい。どんなに眠くても食い物には目が無かったがな。そこまで具合が悪いのなら俺が診てやる」
「大丈夫だって…」
本気で付き合っていないのに、は私の特性まで覚えてしまっている。
今だけの付き合いならそんなこと言わないでよ。
私だけの専属のドクターになってくれとは言わない。未来ある恋人になってくれるなら…。
「こっちを見ろ」
俯いたままの私の顔を両手で押さえると、は見つめてくる。私の心の奥まで読みとってしま
うような視線が痛くて目を反らしてしまう。
「言いたいことがあったら吐き出せ。何でも聞いてやるから」
もうの前では誤魔化せない。
大好きだけど、こんな辛い思いを抱えながらあと1年付き合うのも耐えられない。
「……ほんとに何でも?」
私はやっとのことで震える声を絞り出した。情けない位に小さな声で。
「ああ、何でもだ。俺が分からないことだったら、どんな手を使ってでも調べてみせる」
やっぱり私はこの人の真っ直ぐな所が好きだ。不器用で荒っぽいけれど、決めたことに対して実行しようと一直線に進む。
「この前ね…クラスの女子から噂を聞いたんだけど…」
「うん」
「それがちょっと変な噂で……」
「何だよ?はっきり言えよ」
は怪訝そうにその先の会話を促す。
このまま正直に話して終わる関係なら、元々長くは続かないってことなのだろう。私は覚悟を決めた。
「さんはね、なんか将来の結婚相手が決まってるらしいよって話を聞いたの。それだけ……」
私にとってはそれだけで済まされる話ではなかったけど、大した事じゃないかのように告げてしまう。
素直になるのって難しいね。
「下らねえ噂しやがって」
が吐き捨てるように呟く。
「本当なの?」
私は少しほっとしながら確認する。ただの噂だと証明してもらうために。
しばしの沈黙の後、はこう告げた。
「……許嫁がいるのは本当だ」
「え?」
あまりのショックで時が止まった気がした。指先が冷たくなり、鉛のように重い塊が体中に圧し掛かる。
何か言いたいけれど喉がつまって言葉が出てこない。
どうして?「本当の訳ないだろ」と言ってくれるのを待っていたのに。
「今まで黙ってて悪かったな。にきちんと話しておきたいことがある」
はそう言うと車をバックさせ、コンビニを出てどこかへ走り出した。
これ以上の悲しい現実を聞かされるというのだろうか。私は呆然と前方を見つめたまま黙っていた。
緑色の標識が見え、やがて車は首都高へと昇って行った。
ちょっとドライブするにも高速を使うんだね。
贅沢極まりないデートも今夜限りできっと終わってしまうだろう。
少しの間、夢物語を味わわさせてもらっただけでも有難いと思うべきなのかもしれない。
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